■生まれ変わりの村とは

『生まれ変わりの村1』が出来るまで(2)

要旨:
『生まれ変わりの村』の本は、旅行記のようなスタイルにしようと思いました。データ本(「生まれ変わりの村1」を当初はこう呼んでいた)を少しでも血の通ったものにしたいというのが一つの理由です。データに対する解釈を入れない代わりに、旅行中の私の気持ちや問いなどを載せます。
特に取材者としてどのような質問をしたかの記録は、科学的な検証のためにも載せておく必要があると思ったのです。そして問題提起のちょっとした発端も書きたいと考えています。
 
自費出版を実現させるプロセスは難航しました。最初に話を持ちかけてきた出版社からはデータだけの本は出せないと断られ、私の会社自体が出版社になる戦略も無理でした。
そのプロセスの中で、貴重な情報が本として出ることは本当に少ないということも分かりました。本当に世の中を変えるとすれば、こういう領域ではないかと思います。
 
私は次の出版社へ、『生まれ変わりの村』自費出版の交渉に行きました。その際に私が出した条件は、出版者側にはあらゆる権利を渡さないという、異例の要求でした。
担当者は会議にかけると返事をし、私の話に興味を示しましたが、全てのデータを時系列順に載せる話をすると、さすがに「それはどうか・・」という反応を見せました。
しかしこのような反応は当然なのです。なぜなら、ほとんどの人はデータばかりを数多く読まされれば、途中で飽きてうんざりしてくるものだからです。読者はデータではなく、解釈に興味があります。つまり、出版社側の言い分にも理があるのです。
 
今回の本では、表紙の写真も自分で撮影しています。使うのは水滴の写真です。7000枚を越える枚数を撮って、その中からわずか数枚の使える写真を選び出すのです。これは偶然性に任せたやり方と言えます。
精神世界や自己啓発で説いているのは、偶然性の逆です。人生を計画して生まれてくると言い、想いが現実を引き寄せると言います。しかし私は、計画や願望実現など限定するだけのものでしかないと思っています。そして、限定されたものを超えるのは偶然性だと思うのです。
生まれ変わりの村の証言から考えれば、全く何の基準もなしにランダムで生まれ変わってきます。数学の用語で言えば乱数表的です。人間は秩序を築き、個を増強させていく一方です。それを解体して自然のシステムに還元するのが、乱数表的な生まれ変わりなのではないかと思いました。
 

2008/01/01 - 最初の事例

 本に登場する最初の事例は、日帰りでした。最後に写真を撮った時間は18時です。
 あの日は、帰るのが大変でした。時間が遅くて高速道路も閉まっていたためホテルに着いたのは深夜を過ぎていました。
 それでも取材出来たのはたった一件です。そしてその日、私はとても緊張していました。これで決まると思いました。何が「決まる」かと言えば、「時空の性質」が・・です。
 インタビューの一つ一つが、実はドキドキでした。そのインタビューの部分を出します。
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 さて、私は生まれ変わった彼女に聞きました。
「死ぬとき、生まれてから死ぬまでの人生のパノラマは見ましたか?」
「そんなの、見ていません。死んでから新しい展開がどんどん始まったからです。パノラマなんて見ている暇はありません」
「前世を反省するようなことは、ありましたか?」
「それもありません」
「現世に生まれるとき、家や両親を選択したのですか?」
「何かにコントロールされていたような感じは、まったくありません。しかし自分で考えて選択をした感じでもありません」
 そして最後に聞きました。
「生まれ変わることを体験したあなたは、もう次に死ぬのは怖くないですか?」
「怖いです。一度体験したと言っても、やはり未知の部分は多い世界ですから・・・」
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 見れば分かるように、相当核心を突いています。
 あまりに緊張していたので(笑)、帰りの車に乗り込んだ時は放心状態でした。
 私は心の中で時空に叫びました。「100年経っても君(時空)を愛している」(笑)
 インタビューに対して、今までの精神世界の答えが来たら、私はどうしようかと思いました。バカな時空でも、ひとりしかいないので、振るわけにもいきません(笑)。「時空を縛って、ローソクたらたらで、いぢめる会」を作ろうかと思いました。そうなると、私の出す本は一変したはずです。どのように一変するかと言えば、「運命変更に賭けよう」とか「時空の思い通りにはさせないぞ」とかいう本ばかりを出すことになると思います。
 ここで気付くと思いますが、精神世界の人の多くは、そういう本を出しています(笑)。つまり彼らは時空、あるいは神なんか、愛しちゃいないのだと思います(笑)。
 
2008/01/05 - 紹介者達の反応

 生まれ変わりの村で紹介者達と夕食を取っている時、一度だけ取材の意味を力説してしまったことがあります。そして「あなたたちは、歴史を変えるかも知れない」というような(そこまではオーバーではないですが(笑))ことを言ってしまったことがありました。
 すると場は、期待に反して非常に白けました(笑)。
 紹介者達からは「わ・・私達のしていることがそんなに意味のあることだったのですね。これからも頑張ります」という返事があるかと思ったのです。
 しかし・・私が言い終わると、紹介者達は止めていた食事の箸を再び動かし始めただけだったのです。
 彼らには「世界を変えよう」などという意識は、皆無だったのです。
 では、彼らは一体何で動いているのか・・。それは極めて個人的なものだと思います。それは一つの、中国特有のものだと思います。
 彼らは縁や繋がりを大切にするのです。中国紀行でも、紹介者が活躍する動機は、そこだと思います。つまり動機はとても「ベーシック」なものなのです。
 それに対して大きな価値を付けてあげて、より肯定することは、逆に白けるのです。
 こういうことも、データ本を作ろうという動機になったのです。
 
2008/01/07 - 旅行記・・1

「旅行記」という発想がどこから出てきたか・・。これには幾つか理由があります。
 まず一つは、データ本はインタビューした順に番号を付けると言いました。つまり時間順です。時間順といえば、大抵の旅行記がそうです。つまりスタイルとして、データ順と時間順は合うのです。
 もう一つの理由があります。それはデータ本を、何とか少しでも血の通ったものにしたいという気持ちがあるからです。
 しかし、データそのものに関するコメントは出来るだけ差し控えたいです。
 だとすれば、旅行中の私の気持ちならOKだと思いました。
 
 単に、気持ちだけではありません。生まれ変わりの村に向かう時は、いつも問いを考えています。どういう問いをすればもっと情報が引き出せるのか・・を。
 つまり取材者としての森田健はどんどん出そうと思うのです。
 例えば、あの世でも食物連鎖があることをどうにかして引き出したい・・でも簡単な問いでそれを済ませたい・・。そして考え出されたのが「煮込みの中に具は入っていましたか?」でした。
 質問は少しずつですが、進化しています。その過程を書くと、面白いと思ったのです。
 いえ、実はこれを書いておかなければならないというのは、科学的という見地からでもあります。本来は、同じ質問を全ての人にすべきところだと思います。それで初めて統計処理が可能だと思うのです。
 しかし私は、バカバカしくて一律に全員に、同じ質問が出来ないタチなのです(笑)。
 だとすれば、質問の変遷は書いておく必要があると思いました。
 
2008/01/08 - 自殺

 84人の中に自殺者が5人もいます。かなり比率は高いです。自殺者であれ、反省させられる場所には行っていません。
 実はこれは、運命論から考えれば当然のことなのです。自殺した人だって「私」が原因ではないからです。「私」が原因ではないのに、反省させられたらバカみたいです(笑)。反省すべきは神の方です。
 生まれ変わりの村のデータは、我々個人がどう対処するかという問題が一番興味あると思いますが・・だって人はみんないつかは死ぬのだし・・。
 しかし本当の問題は、生死を含めた全体のシステムだと思います。

 そういう問題提起のちょっとした発端くらいは「旅行記」に書きたいと思います。
 自殺しても同じだとすれば、自殺を助長させることにもなりかねません。しかし本当の問題は「自殺をしても同じ」だということです(笑)。この点を旅行記の中に書けるかどうか・・です。
 
2008/01/09 - 暗くなることへの反応

 ホームページに生まれ変わりの村の情報をアップすると、拒否反応のような現象が起こりました。楽しい中国紀行が、生まれ変わりの村の情報で、突然暗くなることへの反応です。だから私はアップするのをやめようかと思ったくらいです(笑)。
 今はどうかといえば、免疫が出来たのだと思います。
 ということは、全く知らない人がデータ本を読めば、やはり暗い気持ちになると思います。だってそこには「光の世界」も「お花畑」も無いからです。
 あの世のことを「楽しかったぁ・・また早く行きたい」という人はいません。どちらかといえば重苦しいです。
 で・・、人は快しか選択しません。でもあの世には、一般的な快は少なそうです。
 この世にある生き方本は、快を追求するためのものだと思います。となれば、あの世での快の追求が出来るのか、出来ないのか。
 とにかく、知ることからでしか始まりません。暗い本になっても仕方はないのです。
 
2008/01/10 - 仏教界で言われてきたこととの違い

 仏教界で言われてきたこととの違いについてです。何せ「成仏」は最も大事なことだと教えられてきました。そのために有り難いお経がありました。
 しかし・・成仏は、ほとんど関係なさそうです。病院で死んでそのまま歩いて産婦人科に行って、そのまますぐ生まれた人もいました。葬式なんて、その人が生まれた後でしょう。
 成仏というのは、「あの世」に行くことですよね・・。行かない人もかなりいますが、その後の人生に、ほとんど関係はないようです。
 とすると、大きな疑問が出てきます。「あの世」って本当に必要なの??
 あの世に行かなければ、スープに遭遇することも少なくなりそうです。
 成仏しなければ、怖い管理人に会うこともありません。しかも異性の部屋とか、好きなように覗けます。透明人間だから。
  つまりどうせお経を上げるなら、「成仏させないようにやってくれ」というのが良いかも知れません。
 あの中国でさえ、仏教信者は1%くらいしかいません。これを知った時、天地がひっくり返りました。日本人も、早く目覚めた方がいいんじゃないかと・・。
生まれ変わりの村のお葬式など、最初のうちは楽しいお祭りかと思っていました。
 
2008/02/07

 生まれ変わりの村のデータ本が、大手出版社から断られました。その後、私の会社そのものが出版社となるような戦略をやってみましたが、それも断られました。
 今、次の手を打っているところです。正直言えば、かなりめげています。
 
2008/02/09 - 貴重な情報が本になる確率は低い

 今回の私の件で思うことがあります。
 最初『不思議の科学』を出したとき、出版社から「森田さん、1000冊買い取って下さい」と言われました。一冊1500円の本なので、150万円に相当します。ちょっとした金持ちでもなければ簡単にOKを出せない金額です。
 しかし本はヒットして、それを超える印税が来たどころか、ヒットしたことで出版社の社長から接待も受けました。次の本からは「1000冊の事前買い取り」は無くなりました。それどころか「他の出版社に行かないでくれ」とも言われました。
 さて、これからが気付きです。
 世の中には貴重な情報が埋もれていると思います。そういったものが本として出る確率は、非常に低いと思いました。
 世の中、間違っている・・。世直しするのだったら、こういう領域だと思います。 
 
2008/02/08 - 輪廻転生本の大半はアメリカのデータ・・1

 今、アマゾンで「輪廻転生」と「生まれ変わり」というキーワードに引っかかった書物を買い込んで読んでいます。それで気付いたことがありました。
「輪廻転生」と「生まれ変わり」に関して肯定的な本を出しているのは、なんとアメリカなのですね。
 日本は、立花隆氏が、臨死体験をデータとして扱った本を出しているだけです。しかし彼は中立を保とうとしています。全面的な肯定派ではありません。
 他の日本人が書いた書物は肯定的ですが、アメリカ人が催眠で集めたデータを使っているだけです。
 そうです。アメリカは、精神分析が進んでいるために、そちらの切り口から輪廻転生に迫っているのです。
 でも考えてみれば、キリスト教には輪廻転生はありません。そういう国土なのに、世界で一番研究が進んでいるのがアメリカなのです。これって、どうこうこと?(笑)
 さらに言えば、日本人が書いた「輪廻肯定書」の大半は、そのアメリカのデータを使っているのです。これって、どうこうこと?(笑)
 
2008/02/09 - 輪廻転生本の大半はアメリカのデータ・・2

 今日も輪廻転生について日本人が書いた本を読みました。アメリカのデータを使っていて、同じ事例なので一時間で読み終わりました。
 しかもアメリカ人達が使う「中間生」という単語をそのまま使っているのだ・・。「あの世」と言って下さい(笑)。
 何でここまで受け売りしなきゃらならないのでしょうか?
 カルマの考え方も、アメリカが発祥です。なんでそれを受け売りしなきゃならないのでしょうか?
 日本人が書いた本を読んでいて、思ったことがあります。それは死など、どうでも良いのだ・・と。だからアメリカのデータをそのまま書き写すのです。
 日本人は死について、自分自身では触れたがらないのです。 
 
2008/02/10 - 自分の呼び名

 データ本で、異変が起きました(笑)。私は今まで「私」でしか本を書いたことはありません。それがデータ本では「僕」になったのです。
 なぜかと言えば、インタビューされた人が喋るときの一人称を「私」に設定したからです。しかし「僕」と呼ぶと、何か変です(笑)。
 
2008/02/11 - 実力の無さ

 私は1000冊買ってくれと言われたときも、当然だと思いました。私は無名だったからです。大手出版社がデータ本の出版を断ってきたときも、当然だと思いました。私の実力はその程度です。
 私の休日は、休日であったことがないです。中国語のノバの先生に「休日にも10時間は働く」と言ったら、とても驚いていました。
 私はそういう風にしか、運を開けない人間だと思うからです。
 
 もしも私に実力があれば、ターゲットを目指して行動したと思いませんか?
 例えば、ある業界を根本から変えようとか。例えば、ある分野でナンバーワンを目指そうとか。
 既に実力アリと思われている者が、「不思議情報求む」という三行広告を出すでしょうか?
 考えても見れば、六爻占術に出会ったのも、生まれ変わりの村に辿り着いたのも、私の実力ではありません。
 それらは1000発の弾を撃ったとして、たった2発が当たっただけです。
 それだけの精度しかない銃の使い手では、使い物にはなりません(笑)。
 実力が無いことは分かっています。だから数で勝負をしているのです。それは今も変わりません。
 実力のあるヤツは、百発百中を狙います。つまり一発の弾で仕留めることを「実力」と称します。
 そういう人は、作戦を練り、いかに効率的に攻めるかを考えます。
 私に実力はありません。だから作戦無しに、撃ちまくるだけです。
 
2008/02/11 - あの世が変わる?

 今までは、あの世に対して正確な情報を持ち得ませんでした。私が小学校の時にお世話になった和尚すら次のように言いました。「死んでみなきゃ、分からん。」
 全く未知の世界に行く時、そこの情報が無ければ、対応のしようがありません。しかも行ってきた後は、みんな忘れています(笑)。
 ところが、生まれ変わりの村の人達がもたらした情報は、あちらの世界の詳しい情報でした。このブログを読む人達は、少なくとも他の人とは違うはずです。
 あの世には太陽が無いことも知っています。あの世ではワンピースが支給されることも知っています。そして、この世から送金できることも知っています。
 多くの情報を知っていると、どうなるでしょうか? あの世で、受け身にしか行動出来なかったのが、少しは変わるのではないでしょうか?
 あの世が変わるというのは、おそらく今まで一度も経験したことがなかったと思います。

 精神世界系の人は、この世を変えるのが大好きです。しかしあの世が変わる方が、時空全体に及ぼす影響が大きいと思います。
 
2008/02/12 - 報告

 今日はある出版社に行ってきました。私が出した条件は以下です。
 
●あらゆる権利を渡さない。映画化する権利もコミック化する権利も翻訳版を海外で出す権利も、何もかも渡さない。
●宣伝を自由にできること。
●本の内容、表紙、帯の表記について、自由にできるいこと。
 
 担当者は「すごい要求ですね」と言った後、会議にかけると言いました。
 さてそのあと、本の内容に移りました。担当者は私に訊きました。
「森田さん、この原稿を書き終わった今、何を思いましたか?」
「もしも神がいるとすれば、なぜ人間を作ったかということが、全く分からなくなりました。」
「ほう・・」(彼の目が少し輝いた)
「つまり生まれ変わったりすることの目的というものが、全く分からなくなったのです。」
「ほう・・、面白いですね。」
「なぜなら、選択という余地がないからです。」
「いいですね。世の中、選択だの個性だのと、うんざりですよ。恋愛結婚は見合い結婚よりも格が上に言われていたりして(笑)。」
「自殺しても、あの世で全くおとがめ無しです。」
「それもいいですね・・。最近の世の中は逆ですよね。人間なら誰だってしそうなことを結果がまずかったというだけで『刑をもっと重くしろ』とか言う奴ばかり・・。森田さんの本、なかなか良いですよ。」
「では、よろしくお願いします。」
「とは言っても私の判断ではどうしようもない。会議にかけてどうなるか・・。なにせ森田さんの要求も高いし(笑)。」
 
 私は今日、この出版社から断られても本望だと思いました。それは、この部分です。

>「森田さん、この原稿を書き終わった今、何を思いましたか?」
>「もしも神がいるとすれば、なぜ人間を作ったかということが、全く分からなくなりました。」
>「ほう・・」(彼の目が少し輝いた)

 彼は編集部の人です。編集部の彼は、特上の問いを私にしたのです。私の「思想」を、たった一行の問いで見ようと思ったのです。彼は宮本武蔵並です(笑)。
 この問いに答えながら、私は「負けた」と思いました(笑)。
 これは私が条件を喋り終わった直後に来ました。ということは、どういうことでしょうか・・。
 もしも私が宗教的な気付きを喋ったら、それでアウトだったと思います。なせなら、その理由は分かりますよね?
 
 私が出した条件は「一切の手出し無用」です。うまくやれば宗教の布教を、出版社の名前を使ってできることになります。
 編集者は原稿を読まないかも知れません。なぜなら私のような依頼者は沢山来ると思うからです。その原稿を全部読んでいたら、仕事になりません。それよりは、たった一個の質問で切った方が楽に決まっています。
 
 言論の自由と言います。言いたいことを言えないと、文句を言う人が沢山います。
 本も普通は、言いたいことを言うのが目的です。
 みなさんが私の立場に立った時、一体どうするでしょうか? 最初の出版社は「解説本と一緒にすれば出す」と言いました。つまり作者の言いたいことと一緒に出せば、問題ないのです。
 普通はそれでOK、それで良いのではないでしょうか?
 みなさんの多くだって、「自分の意見書いてはいけない」と言われる方に抵抗感を示して、自分の意見をどんどん書いて下さいと言われれば、喜んでそっちを選びませんか?
 
 あれだけの条件を並べて、編集者は頭に来たと思います。自由に行動したいというのは、ガキのセリフです。私はまさに、ガキのセリフをまくし立てたのです。
 彼は思ったと思います。「このガキは、何を主張したいのだ?」・・と。
 そしてあの質問が来たのだと思います。私はこの問いに「おぬし、デキル」と思いました(笑)。なぜなら、試験で言えば小論文がいきなり出されたのです。
 普通は、そうしないです。簡単なジャブから入るはずです。「この取材にはどのくらいかかったの?」とか(笑)。
 だから私は、断られても本望です。
 

2008/02/15 - 報告の続き

 私は続けました。
「つまり今まであった考え方というのが、取り払われるような感じなのです。」
「ふうむ・・」
「取り払われていった末、何も残らない。だから、なぜ人間を作ったのか、分からなくなったのです。」
「じゃあ、何で本を出すの?」
「問いかけたいからです。例えばこの本が出来た時点で、あなたはどう考えますか? と問いかけたいのです。」
「それは面白いねぇ。」
 
 私は言いました。
「この本は、取材した順に並べてあります。普通は作家が言いたいことのためにデータを並び替えます。その方が読者としても読みやすいです。しかしこれは違います。アットランダムですから、話題が飛びます。」
 編集者は言いました。
「そ・・そこまでやるんですか。それはどうかなぁ。そこまでやると、売れなくなると思うよ。」
 
2008/02/17 - 出版社側の理

 一般的にデータというのは読むに耐えないです。だってそうでしょう? その中にはロクに使えないデータだってあるはずです。いえむしろ、そういうものばかりです。
 普通データを取る作業というのは地味です。コツコツと積み重ねないといけません。
 あっても無くてもよいデータもあります。そういうものまで全部読まされたら、エライことになると思いませんか?
 
 出版社の側にも「理」があるということです。その理はとても正常だと思います。「体を悪くしてまで喋ったくれたものだから、データ本は全部をそのまま出さなければならない」という意見よりも、よっぽど理に適っていると思います。
 体を悪くして云々は、読者やマーケットにとってはどうでも良いことです。それを振りかざすのは正義の使者を思わせます。一歩間違えば宗教です。
 もう一つの意見として、「出すことに意義がある」という風なことを言う人がいます。
 これは「自分は上だ、お前らは下だ」とい姿勢と似ていると思います。世界を変えるとか言っている人と大差はないと思います。
 
 しかし、データ本を作成していて、うんざりしました(笑)。作者がうんざりするんだから読者はもっとうんざりするでしょう。
 人は、データになんか興味は無いのです。人は解釈に興味があるのです。
 この点で、出版社の下した結果は正しいと思います。
 
2008/02/16 - 善悪の概念

 時空に善悪の概念が無いのは、本当にすごいことだと思います。カルマが存在しなかったというのも、本当にすごいことだと思います。
 カルマの存在を置かないで時空を考えた時、その存在の意味が、本当に分からなくなります。

「あらゆるケースを体験したいのだ」という仮説もありますが、私はそれにも、実は納得していません。
 何故カルマが無いのかを考えるだけで、ワクワクして眠れなくなります(笑)。
 
2008/02/17 - カルマを言う人

 私はカルマを言う人の思考が、どうしても理解できません。
 カルマというのは、時空の価値観において行われることですよね? つまり時空に善悪の価値観があるということが前提となります。
 私だったら、バカバカしくてやっていられません。西田敏行主演の『椿山課長の七日間』という映画で、あの世に行ったとき永久消滅のボタンを押した人がいましたが、私は生きているうちにそれをしたいです。
 カルマを言う人は、どうして、やっていられるのでしょうか?
 それは、時空の基準に合わせて自分が成長したいからかも知れません。だとすれば、めちゃめちゃ「個」ですよね? そういう自分が嫌にならないのでしょうか?
 因果応報ということで、仏教の一部ではずっと言われてきたことです。東洋全体がバカだったとしか言いようがないと思います。
 しかもくどいようですが、カルマを言う人の多くは「宇宙に善悪は無い」と言います。
 
2008/02/19 - 「私は結果」とカルマ論

「私は結果」という考え方があります。それは、運命は決まっているということを言い換えたフレーズです。
 もしも運命が決まっていて「私は結果」ならば、カルマが出てくる隙も無いと思いませんか?
 だって全ては宇宙の始まりから決まっていれば、過去世も全て決まっています。そこで何をしようと、その人に責任はありません。
 なのでカルマという考え方は、「私は原因」から出てくると思います。

 
2008/03/01 - 偶然性

 昨日は第三巻用の表紙の写真を撮影しました。今日は第二巻用の写真を撮影しました。明日はいよいよ第一巻用の写真を撮ります。全て逆です(笑)。
 ところで表紙には水滴の写真を使います。
 水滴の写真を計画的に撮ることはとても難しいです。構えて撮ったとしても、シャッターを切った時には水滴は下に落下してしまっています。
 なので私は、一日で1150枚もの写真を撮りました。しかしその中で使えるのは数枚しかありませんでした。ということは、偶然性に任せているのです。
 ところが「偶然」というのがキーだと思います。未来からの信号も、実は偶然性の中に潜んでいると思います。
 計画的に推し進めるあらゆる事は、過去に関係していると思います。

 人間には大脳皮質があります。それを使ってやる事は、過去に関係するのだと思います。
 中国紀行も私は主体的に動きませんから、これも偶然に追うところは多いです。
 しかし世の中では、偶然を低く見るところがあります。
 特に精神世界では、「計画する」とか「意識する」とか「想い」とかが重要視されます。
「世界は自分の内面が創り出している」と言い切る人すらいます。
 ソウルメイトという概念も、偶然性を否定するものです。
 ここまで書いて、思いました。偶然性という概念は時空の秘密を解き明かす概念かもしれません。
 
2008/03/02 - 引き寄せるか引き寄せられるか

 この世で起こることは、量子力学のような小さな世界でなければ、全て確定的に分かるはずです。全ては物理の方程式で決まるからです。なのでこの世に偶然ということは無いのです。
 偶然を一つずつ潰していったのが科学の発展と言えます。なので昨日の書き込みは、少し変なのです。この世に偶然は無いのですから・・。
 定義を分かりやすくする必要があります。
 自己啓発系では「この世は全て必然で動いている」と言います。このときの必然とは、自分から見ての世界だと思います。必要必然ベストという言い方も同じです。
 彼らにとって法則というのは、自分に利用すべき法則です。
 
 今日私は1813枚もの写真を撮りました。彼らはそんなことはしないはずです。
 想いを込めて撮れば、世界の側がその人に被写体を与えてくれるという考え方だからです。何回撮ってもいい写真が撮れないのは、想いが足らないからです。
 つまり、彼らは「引き寄せる」のです。
 私は逆です。私の側から向こうに入っていくのです。私が引き寄せられて・・(笑)。
 引き寄せるか引き寄せられるかの違いは大きいです。だって後者は自分のコントロールを手放すのですから・・。
 こうして後者は、偶然の世界に入っていくのです。
 引き寄せる側が意識の世界だとすれば、引き寄せられる側は無意識の世界です。
 偶然とは、無意識の世界なのだと思います。それが意識を超えるものを引き出します。

 つまり計画性とは予想外を排除した世界なのです。
 
2008/03/03 - 限定を解除するのは偶然

 人生を計画するということが良しとされています。しかしそんなの、なんてつまらない人生だろうと思います。
 生まれる前に課題を決めるとか言いますが、それもなんてつまらないことだと思います。
 そういう行為はただ、限定するだけだと思います。限定されたものを超えるのは、偶然でしかないと思います。

 限定と言えば、表紙の写真を撮るという行為も、限定を解除している行為だと思います。
 普通なら、その道のプロが出てきます。そしてプロは総計6日間もかけて、7000枚にも及ぶ枚数は撮らないはずです。そんなに撮ったら、仕事になりません(10万円程度では)。
 今日私は、会社のマックに撮った写真を入れました。自分で表紙をデザインするためです。そういう過程で一つのフィードバックがあり、なんと本文の修正までに及びました。
 普通はあり得ません。表紙を作ることが、本文にも響いたのです。
 しかし私は、密かにこういうことが起こらないかと狙っていました(笑)。
 さらにこの一連の行為の中で、次に出すべき解釈本は、二種類に分けることに決めました。これらは全て偶然の中で起こったことなのです。
 
2008/03/04 - 乱数表・・1

 数学で、乱数表というのを習ったことがあると思います。この世は方程式で動いているので、結局は必要必然ベストなのです。しかし乱数表は、法則の中にありながら偶然を作り出しています。
 生まれ変わりの村の証言によれば、あの世には審判がありません。言い換えれば、裁く基準が存在しません。もっと言い換えれば、善悪の基準がありません。
 なのであの世は乱数表的なのです。でたらめでもいいのです。でたらめに生きようが真面目に生きようが同じです。
 そして乱数表のごとく、この世に送り出されます。そこに個の介在する余地はありません。「こんなブスな男にはなりたくない」と叫ぶチャンスすら与えられずに、ブスな肉体を割り振られます。
 言い換えれば、法則性の中にありながら偶然に近付けているのが、生まれ変わりのシステムだと思うのです。
 なのにどうでしょうか・・自己啓発系の人達は、その偶然性を否定しようとします。バースビジョン(生まれる前にする計画)とかソウルメイトとか言います。
 私は偶然性が時空の謎を解く鍵だとさえ、思えているのです。
 
2008/03/05 - 乱数表・・2

 物理の法則には「熱力学第二法則」というのがあります。熱い物と冷たい物は混ざり合い、平均化するという法則です。つまり秩序は次第に壊れていくということです。
 しかし人間に限っては、秩序が好きです。平均化するどころか、善悪の基準は新しく出来るばかりです(法律は増える一方)。
 放っておけば、グループ化する傾向もあります。液体のように、均整化する気はありません。
 別の言葉で言えば、「個」は増強する一方です。
 ここに歯止めをかけるには、乱数表の適用しかありません。
 つまり乱数表の如く生まれ変わらせるのは、人を自然のシステムとして扱おうとしているのだと思います。それが人によっては、面白くないのです。
 だから勝手な解釈をして、安心したがるのだと思います。