『生まれ変わりの村1』が出来るまで(6)
要旨:
データ本を作成する際に最も難関となったのは、事例を時系列に並べて載せることでした。これは、支離滅裂になっても順序の並び替えをせずにそのまま出すということです。
多くの読者には耐えられないだろうと思います。それに、このような本の書き方はどこの出版社でも通用しません。そのため、自費出版しか道はありませんでした。
そうまでして時系列を崩さないのは、起こった順序も含めてデータだと考えるからです。
私は取材を始めた頃、ほとんど質問が出せませんでした。完全に受け身の状態で、どんな話が出てくるかを向こう側に決めさせた形でした。それから次第に私の問いが開花していきます。時系列に載せることで、取材者側の問いの推移も読み取れると思います。
初めて取材した証言者は、生まれ変わりの村のことを私に教えたトラさんのお姉さんが紹介してくれました。お姉さんは調査の最初に一番相応しい人を考えて選んだはずです。一番目の事例がその事例であることも、偶然ではありません。
最初の4つの事例は、あの世の記憶が無く、前世の家族との交流が語られています。これも、前書きなしでいきなり始まる本の内容としては、相応しいものになっているのです。
時系列に並べると、私の意思が介入する余地はありません。その代わり、生まれ変わりの村の意志がそこに反映されるのです。
校正のために改めて『生まれ変わりの村①』を読み直してみると、私自身が癒されていくのを感じるのです。なぜ癒されるのかと考えてみると、一つには時空の向こう側に開いているからではないかと思います。証言者の語る人生を通して、透明のガラス越しに時空の素顔が垣間見えるような思いがするのです。
もう一つの理由は、証言者達の中に想いを成し遂げて死んだ人は一人もいないためだと思います。彼らは証言している時にも、誰一人自己主張をしてきませんでした。日本の臨死体験者などが自分の体験や能力を特別なことのように語るのにひきかえ、生まれ変わりの村の人達は力説などせず淡々と自分の体験を事実のままに証言するのみです。
彼らの証言は私自身にも手放すことを教えてくれます。そして私が人生の窮地に陥った時にも、この本を読むかも知れないと思いました。
最後の証言者は、「私はもっと輪廻したい」と言いました。この言葉は、カルマ論を始めとする輪廻の価値観をすっ飛ばしていると思います。ほとんどの人間は、人生にも輪廻にも積み上げの価値観を持ち込んでいます。しかし最後の証言者は、積み上げないでも行けそうだという体感を持ったのではないかと思います。
ここで、一つの大きな問題提起をします。
生まれ変わりの村の調査で、あの世のスープを飲まなければ前世の記憶を持ったまま生まれ変われるという情報が得られました。この世では、多くの人間が積み上げの人生を生きています。こういう状況下でスープの情報が公開されれば、来世をかけてまで、積み上げようとする人が出るのではないでしょうか・・。
今日は『生まれ変わりの村①』の文字構成チェックのために、もう一度読みました。
普通、書いた本人が自分の本を読むというのは、結構苦痛です(笑)。第一の理由は、飽きてくるからです。
でも今回の本は、何度読んでも飽きません。それどころか、毎回新しい発見があります。
もう一つは、どの事例にも人生が詰まっているからです。これは臨死体験の本とは大きく違う点です。
二つの人生を繋ぐ、壮大な物語があるからです。
『生まれ変わりの村①』を読み返して思うことは、最初は大した質問も出来なかったということです。証言者に圧倒されているのです。どういう質問をしてよいかすら、分からないのです。
これは時系列の本だからこそ、分かったことでした。
84人のうちの23人の証言が『生まれ変わりの村①』に入っています。
読むと分かりますが、生まれ変わりの村で、私がヨチヨチ歩きの状態なのです(笑)。
調査している本人が、その対象に圧倒されてしまっているのを読むのも、面白いと思いました。
武蔵と小次郎の対戦なら、第一巻の私は小次郎なのです(笑)。武蔵の場に、完全に支配されてしまっています。
でも、これはとても重要だと思いました。私が、もともと持っている仮説を証明するために行ったわけではないからです。
とにかく私は、最初は受け身的なのです。言い方を変えれば、全方向にアンテナを開いていた状態でした。
だから、なぜか私は、第一巻がとても好きなのです。
臨死体験者は、口々に光のシャワーとお花畑の存在を言います。それを聞いて、私達は安堵していました。あの世に行けば楽が出来る・・と。
しかし今回出す本には、そういう証言は一つもありません。この点においても、癒しはありません。
あの世では管理人から棒で叩かれる人もいました。こうなると、癒しの反対です。
この本を買わないという人がいたとすれば、そういう世界を肯定したくないのだと思います。
あとがきには「光のシャワーやお花畑こそ、本当の地獄ではないでしょうか?」というような内容が書いてあります(笑)。もちろんこのフレーズをズバリと書いていませんが・・。
光のシャワーやお花畑というのは、価値観が単一のような気がするのです。価値観が単一ということこそ、実は地獄だと思えるのです。
時系列に並んでいると、証言集は支離滅裂になります。あの世はこうだと私が解説を加えた次の事例で、それはもう崩されます。
読者の多くは、それに耐えられないと思います。「ちゃんと並べ替えてから本にしろよ」という声も聞こえそうです。
しかし、それをやれば、私は今後の調査ができなくなります。
だってそうでしょう。今後だって、何が出てくるか分からないからです。
支離滅裂のまま出す初めての本かも知れません(笑)。
棒で叩かれることが怖いとか、癒しの世界ではないというような反応があります。私はそうは思っていません。このことは、本の中にも書いてあります。
一番怖いのは、光のシャワーの中でにっこりと笑い、人々を誘導していくような存在がいる場合です。人によっては、そういう世界を癒しだと思う人が多いかも知れません。
しかし実際は管理人は棒で叩いています。それは彼個人の価値観でのことです。
彼から離れれば、影響はなくなります。その程度なのです。悪いけど、私達と同じ、小さな存在なのです。
それで・・一面のお花畑が癒しでしょうか? そういうことを本に書く人は、なぜ疑問に思わないのでしょうか・・。「一面のお花畑」という意味を・・。
棒で叩く管理人がいる世界こそ、癒しなのです。花など無い世界こそ、癒しなのです。
生まれ変わりの村の取材に次第に私がパワーアップしていったのは、管理人が棒で叩く世界だったからです。光のシャワーもお花畑も、無かったからです。
今日も『生まれ変わりの村①』の校正をやっていますが、この本は現在形で書かれているのです。それがとても心地良いです。
成田に帰る飛行機の上で書いていたりします。筋書きの無いドラマのようです。
でも、飽きさせません。だって事例がどれも、ぶっ飛んでいるからです。
今回の本の一部です。
「一般的な科学的調査書ならば、調査している本人の主観的感想は書かないのが普通です。調査されたデータだけが勝負だからです。しかし、調査している僕の問いがどこにあるかを書いておくことは、答えを吟味する上でも大事なことだと思うのです。僕が無意識に答えを誘導している可能性もあるからです。」
みなさんは「データ本」ということで、かなり無味乾燥な内容を予想しているのではないでしょうか?
それは違います。意外にウエットです(笑)。その時の情感を正直に書いています。
なぜ書いたかと言えば、上記のフレーズが理由なのです。
『生まれ変わりの村①』は既に予約が開始され、印刷会社に入稿する直前ですが、今私は表紙を変えようとしています。
もしも表紙が変われば、アマゾンに既に登録した表紙も変わります。
表紙はすっきりしていました。でもこれでまたゴチャゴチャしてきます(笑)。
いち早く私の家族に相談したら、「入れてもマイナス効果は無い」・・でした。これも重要なフィードバックです。だってマイナスが無いというのは、ゼロかプラスしかないということだからです。
変更前
これは今までの表紙です。よく出来ている表紙です。シンプルで、引き付ける表紙です。癒しの要素もあります。
しかし、ここに何かが足りないと思ったもの何でしょうか?
重力の法則が発見されたことで、惑星の軌道は統一性のとれたものであることが分かったわけです。つまり星たちが偶然に、バラバラに動いているわけではないことが分かったのです。
前世記憶とか、あの世でお花畑を見るとかは、いままで「偶然で、バラバラ」な現象でした。たまたま臨死体験をしたとか言う人がいるだけでした。誰にでも適用できることではありませんでした。
上の表紙を見ても、同じように思えます。この村の、何かの特殊現象であり、自分には関係ない・・と。それは「中国奥地」の問題だ・・と。
しかしスープの情報は、全世界の人すべてが使える情報です。
「生まれ変わりの村で森田さんが見つけた最大の情報は、スープでしょう。もちろん伝説ですから中国の他の地域にもあるかも知れません。でもその情報が前世を含む人間関係までを変えてしまうことを取材したのは、森田さんが最初です。そんなどでかい情報の前に、自殺しても天国に行けたなど、二の次でしょう。結果よりも原因が何であるかを示唆する言葉を入れるべきです」・・というわけです(笑)。
入れるべき8文字は、「意外な前世記憶法」だったのです。
これが入ることで、誰にでも関係する情報に変わるのです。
生まれ変わりの村は特殊だと批判するヤツも、死んだらスープには気を付けるでしょう(笑)。
何故それが表紙に無いのだ・・と。
変更後
最初のに比べてデザイン的には落ちます。不安定になります。しかしその不安定さは、これを見ている自分がそこに関係する可能性があるからではないでしょうか・・。
生まれ変わりの村を調査したのは、正確に言えば私が最初ではありません。中国の、気功修練団体が調べたのが最初です。彼らは定期会報誌も持つ、大きな団体でした。
しかし数人を調査して、終わってしまいました。会報誌に、たった一回登場しただけです。その会報誌は私も持っています。
なぜ継続調査をしなかったのでしょうか。これは私の勘ですが、修練に生かせなかったからだと思います。
彼らは気功を修練するのが目的なので、それを輪廻に生かせないかと思ったはずです。
生まれ変わりの村の証言の中に「気功を修練していたお陰でお花畑に行けました」とかいう報告はありませんから。
生まれ変わりの村というのは、私とトラさんが付けたネーミングです。前世記憶者がいるとはいえ、外見は普通の村です。
最初の人に会いましたが、あの世のことは全く覚えていませんでした。次の人も、あの世のことは覚えていませんでした。
次の人は何を喋ってくれるのか、もちろん分かりません。
ここまでを読んだだけでも分かると思いますが、計画的に事を進めることが出来ないのです。
しかし本を読む人の多くは、そうは思っていないはずです。世の中の大半の調査というのは、計画的だからです。質問票をあらかじめ用意して、それに沿って行われます。
でも考えてもみて下さい。あの世は知らない世界なのです。そこに対して、始めから計画的な質問が用意できましょうか?
分からない世界は、問いすら分からないはずです。
私は無計画に進めました。それがかえって良かったのではないかと思っています。
最初の4人までは、あの世の記憶がありません。これは本にする上で助けられているのです。だってのっけから棒で叩く管理人が出てきたら、相当引くでしょう?(笑)
本には前書きがありません。なので心の準備というものもありません。
生まれ変わり現象の信憑性を増すのは、前世の家族との交流だと思います。
日本でも、子供は前世を覚えていると言う本が出ていて、空からパパとママを選んできたなどと書いてあります。しかし、詳しい前世を証言して、そこと交流したところまでいっていません。こうなると、あの世の描写すら「夢のごとく」だという批判には耐えられません。
ところが生まれ変わりの村での取材は、前世の家族との生々しいやりとりから始まっています。本を書く著者が前書きで「これは本当です」などと書く必要は、何もないのです。生々しい前世とのやりとりで、一服コーヒーを飲まないと次にいけません(笑)。
まさに時空は、イントロダクションを用意してのではないかとさえ思います。
世の中の事は、起こるべくして起こっていると思います。その順序を並べ替えて起こることは、ありません。
データとして発表するならば、起こった順も「データ」のはずです。
例えば生まれ変わりの村で遭遇した最初の事例です。何故その事例が選ばれたのでしょうか?
トラさんは、生まれ変わりの村の近くに住んでいる実のお姉さんに紹介を依頼しました。
お姉さんは私とトラさんの関係の話は聞いていたはずです。なので一番相応しい人を最初に紹介しようと思ったはずです。
だってそれがいい加減な事例なら、生まれ変わりの村に私は来なくなってしまうかも知れません。
何人もいる中から選んだのは、お姉さんなのです。
生まれ変わりの村の近くに住み、そういう情報に詳しい人が、日本人に一番先に知って欲しいのが事例1のはずなのです。それは事例2でも同様だと思います。
時系列になったのは「生まれ変わりの村の意志」なのです。決して偶然ではないのです。
今日も『生まれ変わりの村①』を読み直しました。校正のためです。校正は仕事なのですが、読み終えるのがもったいないのです(笑)。こういう本は初めてです。
私は今まで、自分で書いた本の校正が大嫌いでした。一つの理由は、書いた時点の自分とは変わっているからです。しかし『生まれ変わりの村①』は、読めば読むほど私を癒してくれるのです。
なぜ癒してくれるのかが、だんだん分かってきました。一つは、時空の向こう側に開いている本なのです。つまり文字の向こうに、時空の素顔が垣間見えるのです。
人生の窮地に陥った時、私が読むのは、この本かも知れません。だってほとんどの事例が、人生半ばで死んでいるからです(笑)。想いを達成した人など誰もいません。そして生まれ変わった人の多くは「想い」など持っていません。
この本は著者に対しても、「手放すこと」を教えてくれるのです。
今日も読み直しました。今日気づいたことは、誰も自己主張していないのです。
臨死体験の本などは、けっこう主張してきます。「悪い未来を見てきたから、人類は生き方を変えなければならない」・・とか。そこまでは言わないとしても、「私は手術室の棚の上に何が置いてあったかが見えた」・・とか。
しかし『生まれ変わりの村①』に登場する人は、誰もそういうことは言いません。つまり「これは本当だ」とか「信じてくれ」とか「このままだと人類は危ない」とか、誰も言わないのです。淡々と、自分の体験を語るだけです。
もちろんそれは、トラさんや紹介者の功績かも知れません。毎年日本から来ている人の前では、何も力説する必要はない・・と告げたのかも知れません。
なので、本には淡々とした証言が続いています。
日本人のスピリチュアル系の本も読みましたが、かなり濃いです。単刀直入に言わせてもらえば、目線が上です。
しかし生まれ変わりの村の人達は、特異な体験をしたにも関わらず、上からものを言った風な人は誰一人いません。癒されると言った点は、ここにもあると思います。
そして問題は、私のコメントです。私は彼らの振幅に合わせています。彼らよりも私の振幅を上げてはならないのです。今日読んだ限りでは、それは成功していると思いました。
生まれ変わりの村の人も自己主張をしなかったのです。だから私も出来ませんでした。
それが、時空を透視できるガラスになれているのだと思いました。
第三巻の終わりにくる証言、すなわち去年の中国秋紀行での最後の人は、すごい証言をしました。
「私はもっと輪廻したい!」
釈迦はこの世は苦だと言いました。そして、その苦から逃れる方法を言いました。
また、一生懸命に修行して悟れば極楽に行き、この世には戻ってこないと言いました。
7年かけて調査して、本を出すことになった最後の証言者が、「私はもっと輪廻したい!」と言ったのです。
第三巻を飾る最後のフレーズも、偶然ですが、偶然とは思えないのです。
「輪廻したい」と言われた時は参りましたね。生まれ変わりの村の人は無敵かも知れないですよ。
山本勘助は、川中島で悲愴な顔をしていました。しかし生まれ変わりの村の人だったら、別な顔になるかも知れません。行くべき世界を知ってしまっているということは、やはり凄いです。
しかし・・です。こう言っちゃあ何ですが、今回発売する本も凄いです(笑)。
なぜなら生まれ変わりの村の人達はネットワークが無いので、個人の体験は個人の体験なのです。しかし今回の本は、84人の事例が全て載っているのです。言い換えれば84回の死の体験が載っているのです。
セックスの体験が無かった頃、エッチ本はドキドキしました(笑)。私が原始人だったら、前戯なんてしないんじゃないかと思います(笑)。でもエッチ本で事前に勉強しているから、やり方を知ってます。
その84人の事例が載っているのです。おそらく究極のハウツー本だと思います。
今を苦労しておけば来世には良い事があるだろう(カルマ的思考)。
神様はちゃんと見ているから、たった一つでも善行をしておけばよい(蜘蛛の糸的思考)
世間一般で言われているような輪廻の価値観は、以上のようなものがあります。
これを一言で言えば、「積み上げの価値観」だと思います。
人間の多くは、積み上げで生きていると思います。
人生は積み上げです。「俺は一生かけてこんな事をやった」というのは、誰しもが思ってみたいことだと思います。
「天命を知りたい」というのも、積み上げから来ているような気がします。
つまり、天命に相当するような価値のあることをしたいということだと思います。
半ば成功した人が「ここまで来られるとは思わなかった」などと言う時があります。
これも積み上げを意識してのことだと思います。
生まれ変わりの村でインタビューされる多くの人は、積み上げの価値観をすっ飛ばしているのです。
おそらく、積み上げないでも行けそうだ・・というのを体感したのではないでしょうか。
積み上げは怖いと思いませんか?
私は怖いです。それは崩れるのが怖いのだと思います。
「あの人も、あそこまで上り詰めたのにねぇ。」
「あなた、こんな人だとは思わなかったわ。」
何でもそうですが、今まで積み上げたことがガラガラと音を立てて崩れる瞬間です(笑)。
トラさんは六爻占術の研究を始めるとき、親戚一同から言われたそうです。
「占いなんかに手を染めると、今までの経歴に傷が付くよ。」
もしかすると、「積み上げ」といのは人生最大の敵かも知れません。
積み上げていくと何がマズイのでしょうか・・。
それは自分に規制をかけてしまうことだと思います。
積んだ部分はその人の人生の結果であり、崩れてしまえば「今までの私の人生っていったい何だったの?」ということになると思うからです。
今この瞬間が次の未来への布石になれば良しとします。しかし今の行為が今までの積み上げをチャラにするようなことだと、人はそれを良しとしないと思います。
なので、そんなことが起こらないように、規制をかけるのだと思います。
積み上げると、自分に規制をかけるデメリットの他に、リセットをかけるのが怖くなることだと思います。
リセットというのは、チャラにすることです。積み上げたものを無くすことです。
私は富士通で辞表を出そうと思った時、これを経験しました。風景がセピア色になった瞬間、「これを逃すと、辞めるのはだいぶ先になりそうだ」と思ったのです。
みなさんもそういうことは、あると思います。
リセットいうのは、特に仮説を作る行為の中では「大きい」です。
科学者とか本の著者というのは、これが出来るか出来ないかにかかっているとも言えます。
新しい事実がどんどん出るとすれば、それに合わせて仮説も作り替えないといけません。
これが一つの「リセット行為」なのです。読者を欺いているでしょうか?(笑)
今日の問題提起は、大きいです。
あの世に「スープ」があるのは、人間が積み上げの人生を生きているからではないでしょうか?
こういう状況下で「スープ」の情報が公開されれば、来世をかけてまで、積み上げようとする人が出るのではないでしょうか・・。